関係性の向こう側~「つながり」をめぐる四つの断片的光景

友達なんて、そういう損な役回りを引き受けるためにいるようなものよ

──今野緒雪『マリア様がみてる パラソルをさして』

Very few of us are what we seem.

──アガサ・クリスティー

 「つながり」について思いをはせるとき、人はまず自分の持っている関係性を元にして考える。「つながり」のあり方は個人個人によって千差万別だ。だからこそ、他者の「つながり」のあり方を知ることは、自分が持つ人との「つながり」を見つめなおすきっかけになるだろう。

例えば、他者の友人関係における悩みを聞いているとき、そこでの助言は自分の持つ「つながり」をベースとしたものになることが多いだろうし、また自分自身の友人との関係をふり返る機会にもなり得る。

つまり、他者の「つながり」は、自分の「つながり」と鏡合わせなのである。言い換えるなら、他者の関係性について知ることは、自分自身の持つ関係性について振り返り、そのふたつの相違点を考えることで自分の関係性をブラッシュアップできる格好の機会であり、他者もまた同じ機会を持ち、それが繰り返されていくことで機会を階梯化できる、ということである。

大雑把に述べるなら、「つながり」について考えるとき、演繹的な思考よりも、経験的な思考のほうが有益な場合が多いだろう。

確かに、「つながり」について観念的に考えることも可能ではある。ただ、そこで抜け落ちがちなことは、人の「つながり」そのものは強い具体性を持つものであり、非常に個別的なものであるということだ。この具体性や個別性は、多くの場合、個人の経験則のうえで成り立っている。

SNSにおける恋愛テクニックの指南について考えてみるとわかりやすいかもしれない。そこで助言されていることは、確かに一般論ではある。ある程度までは妥当なのかもしれない。しかし、「つながり」のあり方に正解はなく、どのような対応が人の心を惹きつけるかについては、最終的にはブラックボックスだ。人の心は、Aという反応を入力したときにBという反応が出力される、とはならないことが多い。SNSにおける恋愛指南は多少の参考程度にはなるが、絶対化はまずできない。自分をよく知る友人からの助言と、個人を見ていない他者からの助言の間には、天と地ほどの差がある。これは考えてみれば当たり前の話だろう。

演繹的な思考と経験的な思考を両立させたい場合は、「つながり」の類型化・分類化と具体化・個別化のバランスをほどよく取ることが重要になってくるだろう。要するに、「つながり」を型にはめて分類しながらも、そのなかで関係性のあり方の例外を認めつつ、個人の人格を尊重して考えることが重要なのだ。

ネットワーク理論という学問のなかに、「スモールワールド仮説」というものがある。簡単に一部分を述べると、知り合いの○○さんの友人の友人が有名な芸能人だった、というような、人と人との関係性をネットワークでつないだとき、関係性の世界はそこまで大きなものにならないのではないか、という仮説である。

これはよく話題にあがることではあるが、ハリウッド映画界では「ケヴィン・ベーコン指数」といって、数多のハリウッド映画に出演している俳優ケヴィン・ベーコンと直接共演した人の指数を1、直接共演した人と共演した人の指数を2、といって続けていったとき、ハリウッド映画界の「つながり」の指数はそこまで大きくならないことが知られている。

また、数学界にも同様の指数があり、これは「エルデシュ数」と呼ばれている。エルデシュという論文の共著が非常に多い数学者がおり、エルデシュと直接共著の論文を書いた学者、その学者と共著の論文を書いた学者、とつないでいったとき、「エルデシュ数」は最大14程度で収まることも有名である。

生活を営むなかで、人間関係の世間が狭いと感じたことがある人は多いだろうが、実際の学問でも研究されている事象でもあるのだ。

古代ギリシャの哲学者・アリストテレスは「人間は社会的動物である」と述べた。群れを作って生きる動物は多いだろうが、人間ほど「社会」を重要視する動物も類を見ないだろう。

人は社会のなかでなんらかの「つながり」を保ちながら生きざるを得ない。「つながり」を大切にすることは、自分自身の生きやすさや他者の生きやすさにも関係してくる。人が「社会的動物」である以上、「つながり」は避けて通れない道なのだ。それがつらい人はいるだろうし、興味のない人もいることは確かだろう。しかし、「関係性」というしがらみは人である以上つきまとう。

これは筆者の考えだが、「つながり」の選択肢が複数あれば、それもまた生きやすさにつながってくるだろうと感じる。大事にしたい「つながり」、自分にとってつらい「つながり」、様々な「つながり」のあり方があるだろう。そのなかで、自分のQOLを上げる方向を向いて「つながり」の選択肢を作り保つ(ときには切断する)アクションを起こすことができれば、またはその勇気を持つことができれば、「社会的動物」として生きやすい環境を整えられるのかもしれない。

著者:樹智花